ビザンティン 「ビザンティン」という名前は、黒海とエーゲ海を結ぶきわめて重要な水路、ボスポラス海峡に面する古代都市「ビザンティウム」に由来する。ローマ帝国のコンスタンティヌス 1 世が 4 世紀にこの都市をコンスタンティノープルと改名し、帝国のもう 1 つの首都にした。コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国は、ペルシア人、アラブ人、トルコ人による東方からの侵略からヨーロッパを守り抜き、西ローマ帝国より千年も長く存続した。ビザンティンが長い間攻め落とされなかったのは、城壁で囲まれたコンスタンティノープルの防御が堅固であり、海上からの物資の補給が可能であったためである。最盛期を迎えた 6 世紀には、ビザンティンは、イベリア半島 (現在のスペインとポルトガル)、ガリア (現在のフランス)、ブリテン以外の元のローマ帝国の全領土を保持していた。また、これに加えて、シリア、エジプト、パレスチナも占領していたが、この地域は 7 世紀の半ばまでにアラブ人に奪われた。さらにランゴバルドやフランクに地中海北部を奪われ、以後の帝国の領土の大部分は、バルカン半島と現在のトルコを残すのみとなった。 ビザンティンの最初の偉大な皇帝は、ユスティニアヌス 1 世 (483 - 565年) であった。ユスティニアヌスはかつてのローマ帝国を復活させるという野望を抱き、それはほぼ達成された。彼の右腕となったのは、その時代の最も偉大な将軍と言われたベリサリウスである。ベリサリウスは、東ではペルシア人、北アフリカではヴァンダル族、イタリアでは東ゴート族、バルカン半島ではブルガール人とスラブ人をすべて打ち破り、帝国の四方を守る要となった。ユスティニアヌスは、軍事活動に加えて、法制度と行政制度を確立し、キリスト教会を擁護することによって将来への基盤を固めた。 コンスタンティノープルがアジア、ヨーロッパ、黒海、エーゲ海を結ぶ交易ルート上の理想的な場所に位置していたため、ビザンティン帝国は何世紀にもわたってヨーロッパ随一の繁栄を謳歌した。コンスタンティノープルは、中国を起点とするシルクロードの重要な終着点であった。ビザンティンの主要金貨、ノミズマは、800 年にわたって地中海全域の本位貨幣として流通した。コンスタンティノープルの立地は戦略的にあまりにも恵まれていたため、ついにはイタリア都市国家の妬みと敵意を買うこととなった。 ビザンティン帝国が隆盛をきわめた理由の 1 つには、ローマ、ギリシャ、ゴート、中東での戦争経験から学びとったノウハウを集めて運営していた、優れた軍隊の存在がある。軍隊の中核は、重装騎兵からなる突撃部隊であった。部隊は、軽装歩兵隊 (射手) と重装歩兵隊 (甲冑をつけた剣士) の支援を受けた。軍隊はテマと呼ばれる複数のユニットに編成され、それぞれ戦術と機動作戦の演習を行った。将校は軍事的な歴史と理論の教育を受けた。ビザンティン軍はほとんどの場合、数のうえで劣っていたが、優れた戦術と統制のとれた行動によって、訓練を受けていない敵側戦士の大群を圧倒した。スパイと諜報員のネットワークが縦横に張り巡らされ、敵の作戦に関する情報をもたらし、また攻撃者を賄賂で手なずけたり、攻撃の矛先をそらしたりして、軍隊に貢献した。 ビザンティン海軍のおかげで、交易船は海上交通路を自由に往来できた。また、包囲戦を仕掛けられたときも補給路を確保できたため、兵糧攻めで降伏させられることもなかった。8 世紀には、アラブ人が陸海両面から激しく攻めてきたが、そのほとんどを秘密兵器のギリシア火薬によって撃退した。化学薬品を調合して作られるこの火薬の成分は今では不明であるが、ホースからまき散らして使用する一種の液体ナパームのようなものであったようである。アラブ海軍はこのギリシア火薬によって海上で徹底的に打ちのめされた。 7 世紀から 8 世紀にかけて、アラブ人はエジプト、中東、北アフリカ、スペインを蹂躙し、ビザンティンはこれらの地域の支配権を永久に失った。1071 年のマンジケルトの戦いでビザンティンはトルコに敗れ、帝国に穀物、家畜、馬、兵士を供給していた小アジアは荒廃した。1204 年、ヴェネツィアのドージェが率いる十字軍は、裏切りを利用してコンスタンティノープルの城塞を突破し、占領した。 14 世紀、オスマン帝国はヨーロッパを侵略し、コンスタンティノープルを迂回してアドリアノープルを占領した。オスマン帝国は大挙してバルカン半島に定住し、1396 年にはニコポリスで大規模な十字軍の軍隊を撃破した。1453 年 5 月、オスマン帝国のスルタン、メフメト 2 世は、重砲を使って防御が弱体化したコンスタンティノープルを占拠した。コンスタンティノープルの陥落により、ビザンティン帝国の終焉は決定的なものとなった。