日本 アジア大陸から最短約 160 キロメートルの沖合いにある日本は、文明の端に位置する神秘の国であった。当初は地理的に隔絶されているために、後には鎖国政策によって世界から孤立していた日本人は、外界の影響をあまり受けずに特異な文化を発達させた。ヨーロッパの中世にあたる時代の初期には、瀬戸内海の北端にある近畿地方が文化の発達の中心地であった。東の箱根山を越えると、関東平野が広がっていた。日本列島の中で最も米が収穫できる沖積平野だった。関東東部と関東より北は未開の地で、新石器時代から先住日本人が住んでいた。 西暦 5 世紀までには、大和政権は主に儀式的な性質を帯びていった。豪族は氏と呼ばれる血縁的な結びつきをもとにした組織をつくって、大和政権と共に支配体制の一翼を担っていた。氏族の長は一種の貴族階級を形成し、土地の支配と大王への影響力を巡って互いに争った。 6 世紀に入ると蘇我氏が台頭し、この世紀の末には歴史上最初の偉大な政治家、厩戸王が活躍するようになる。厩戸王は諸改革を実行し、後世に引き継がれる日本文化の基盤を築いた。645 年の乙巳の変以降、権力は蘇我氏から藤原氏の手に移った。そして、藤原氏は平安時代 (794-1185 年) 末に武士の時代が始まるまでの大部分にわたって日本の政治を支配した。藤原政権は 645 年に始まった大化の改新のもとでさまざまな改革を推進した。律令体制と呼ばれるこの改革は、土地と人民の私有を排して公地公民とし、班田収授法によって農民に土地を分配してそこからの収穫に基づいて租とよばれる税を取り立てた。とはいえ、国土の多くの部分はこの体制に入っていなかった。実質的な権力は米の収穫量の多い土地で力をつけた一門に移り、この一門間の争いが内戦へと発展し、武士階級が台頭するようになっていった。 中世ヨーロッパの場合と同じように、日本においても、中央政府の崩壊、力を持つ地方豪族の台頭、辺境の地での先住民族との争いが、上級武士を担い手とする文化が生まれる土壌を創った。武士は、ヨーロッパの騎士にほぼ相当する侍 (「仕える者」) として知られるようになった。12 世紀末には、軍事政権である鎌倉幕府が貴族階級に代わって実権を握るようになった。幕府の長は将軍であった。 侍は武士道に則って生きた。これは、ヨーロッパの騎士道に相当するものである。武士道の基礎を成すのは、主君への忠誠であった。武士は主君に庇護を求め、その代償として主君の命令に無条件で従い、主君のためにはいつでも命を捧げる覚悟をして日々を暮らした。侍は先祖を敬い、家の伝統を守ることに多大な努力を払った。彼らは名誉を重んじて、強固な意志により、何があろうとも臆病な行動を取ることはなかった。武士は死を覚悟して戦場に赴いた。命を惜しむ武士は無様な戦いしかできないと考えられていた。 鎌倉時代 (1185 - 1333 年) は、源平の争乱後に権力を握った源氏がもともと支配していた地域の名前をとって付けられたものである。1274 年と 1281 年の 2 度にわたって、モンゴルが日本を侵略しようとしたが、どちらも撃退された。偶然の嵐により、 2 度目のモンゴル侵略軍の艦隊は大きな損害を被ったのである。